2017.1  第 6 号 特集記事-4

柏野 牧夫 氏

「トップアスリートは何が違うのか? ~脳科学 × ICT で心・技・体を解明する」

近年、スポーツ界において、アスリートのパフォーマンスを計測し、データを蓄積・分析することで、チームの戦略立案や選手の評価に役立てようとするスポーツ・アナリティクスに注目が集まっています。各種ウェアラブルセンサの開発や AI の進展といったデジタライゼーションが、スポーツに革命を起こしつつあるのです。そうした中、 NTT コミュニケーション科学基礎研究所の柏野牧夫氏は、アスリートの生体信号や動きなどの情報から脳の機能を明らかにし、「勝てる脳」を鍛えるトレーニング法を開発し、選手の技能向上をめざす「スポーツ脳科学」の研究に取り組んでいます。東京オリンピック・パラリンピック2020を控え、スポーツ・アナリティクスへの期待が高まる中、アスリートの脳という未知の領域に切り込む最先端の研究についてご紹介します。

柏野 牧夫 氏
日本電信電話株式会社 コミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員
スポーツ脳科学プロジェクト/プロジェクトマネージャー
東京工業大学 工学院情報通信系 特任教授
柏野 牧夫 氏

スポーツの「技」に欠かせないのは、脳の「予測」

NTT の「スポーツ脳科学プロジェクト」は、 2017 年 1 月に発足したばかりの新しい取り組みです。スポーツ科学では従来、筋力や心肺機能を高めることを目的に運動生理学を中心に研究が進められてきましたが、ここでは、スポーツで不可欠とされる「心・技・体」のうち、「心」(精神状態)と「技」(動きのコントロール)を担う脳機能を解明・強化することで、「勝てる脳」を鍛えようとしています。「現状のスポーツ・アナリティクスの対象が の結果であるのに対して、我々が探ろうとしているのはパフォーマンスが生み出される原因、すなわち脳の働きです。脳機能を解明し、『勝てる脳』のためのトレーニング法を開発したいと考えています」と、プロジェクトマネージャーの柏野牧夫氏は語ります。

cisco insight スポーツ脳科学プロジェクト

例えば、高校野球で本塁打を量産した選手が、必ずしもプロ野球で活躍するとは限りません。逆に、門田博光選手や掛布雅之選手、小笠原道大選手のように、プロで 300 本以上本塁打を放ったホームランバッターであっても、高校時代には本塁打を1本も打たなかった打者もいます。「アスリートの才能を見極めるのは、それほど難しいのです」と柏野氏。では、トップアスリートの原石を早い時期から見出し、才能を伸ばすにはどうすればいいのでしょうか。その鍵は「潜在脳機能」にあると、柏野氏は言います。

「バッターが球を打つためには、投手が投げる前から球種やコースを絞り込み、さらには投球モーションや投げられた球の初期軌道から球が到達するタイミングや位置を予測して、適切な体の動かし方を計画し、バットを振るか( Go )/振らないか( NoGo )を決定しなければなりません。ところが、視覚で捉えた情報が脳内で処理されて意識に上るには、 0.5 秒ほど時間を要します。日本ハムファイターズの豪腕、大谷翔平投手が投げる時速 165km の球であれば、バッターに届くまでわずか 0.38 秒ほどですから、意識的に考えていたのではとても間に合いません。にもかかわらず優れたバッターが打てるのは、『潜在脳機能』と呼ばれる、本人が自覚できない無意識の脳の働きが優れているからなのです」(柏野氏)。

cisco insight バッティングにおける脳情報処理

現在、 NTT コミュニケーション科学基礎研究所(厚木)では、各種計測機器を備えた「スマートブルペン」を設置し、東京六大学野球選手や元プロ野球選手、ソフトボールの日本リーグ選手などの協力を得て、この潜在脳機能を探るさまざまな実験に取り組んでいます。

その中で、バッターの予測に関する実験を行なったところ、興味深い結果が得られました。「ストレート(速い球)とチェンジアップ(ゆるい球)という、球速の違う2種類の球をランダムに投げて打ってもらい、その際の打者の体の各所の動きを計測しました。際立っていたのは、女子ソフトボール日本代表チームの中心打者、山田恵里選手です。ストレートに確実にタイミングを合わせるだけでなく、球速が20km/hほど落ちるチェンジアップも、タメをつくってタイミングを合わせてスイングしていることがわかりました。一方、比較した若手選手は、タイミングがバラバラで合わせることができません。山田選手の場合、体の動きが球種に応じて変化し始めるのは、投手の手からボールが離れてから約 0.3 秒の時点。脳内での情報処理や神経系での伝達に要する時間を差し引くと、両者の違いは、最初の 0.1 秒ほどの間の軌道情報から球筋を予測できているかどうか、になります」と柏野氏。

cisco insight 打てる打者は「タメ」を作れる

さらに、両者にスマートブルペンで、バットの代わりに押しボタンを持ってもらい、「ストレートなら押す、チェンジアップなら押さない」という球種判別の実験をしたところ、山田選手の正答率が80%なのに対し、若手選手は 40% 程度でした。つまり、山田選手がほぼ予測できているのに対して、若手選手はほとんどデタラメに押していることがわかったのです。

cisco insight 素質か訓練か? U-14の場合

逆に投手にとっては、ボールが手から離れてから 0.1 秒ほどの時間、打者に球筋を読まれなければ、事前の予測が当たらない限り、打たれずに済みます。「大リーガーのダルビッシュ有選手は、 150km /h 台のストレートと10種類程度の変化球を投げることができますが、驚くべきことに、投球フォームを映像で重ねてみると、いずれの球も、ボールをリリースするまでほぼ同じ動きであるだけでなく、初期軌道が極めて似ていることがわかります。つまり、ダルビッシュ選手の強さは球筋を読まれないことにある。そう考えると、コントロールが良い投手とは、単に的当てができることではなく、打者に球筋を予測させないことにある、と言えるのではないでしょうか」(柏野氏)。

何をどう見るかが、予測の精度を上げる

さらに柏野氏は、「変化球は目と脳がつくる」と言います。眼の網膜の特性として、中心部では形ははっきり捉えられますが、周辺部では形はぼやけます。その代わり、動きに対する感度は、むしろ周辺部のほうが高いのです。つまり、ボールの見え方は、網膜の中心で捉えるか、周辺で捉えるかによって変わるということ。投手は打者の目をうまく操ることで欺くことができるし、打者は投手の動きに騙されることなく適切に見ることで打つことができるというわけです。では、何をどう見るのが有利なのでしょうか。

cisco insight 脳は断片的情報からボールの軌道を推定する

「柳生新陰流では、『遠山の目付け』といって、相手の剣に集中するのではなく、遠くの山をぼーっと見るように相手の全体を捉えろと言います。宮本武蔵は、『観の目強く、見の目弱く』と言っていますが、これも対象をフォーカスして見るのではなく、全体を見て背後にある意図を汲み取れ、ということでしょう。ボクシングのライトフライ級等の王者、井上尚弥選手にお話を伺ったところ、相手の目の辺りを見つつも、全体をぼーっと感じている、とおっしゃっていました」。

さらに柏野氏は、「目は心の窓」と言われるように、目の動きや瞳孔の状態から脳の状態が推定できると言います。「ボディ・マインド・リーディングと言って、我々は目に現れるさまざまな特徴から、2枚の写真のうちどちらを好みだと思っているのか、音楽のフレーズがどの程度予測を裏切ったかなどを当てる技術を開発しました。この知見を応用して、東京六大学野球の選手に投球フォームの映像から球種の判断をしてもらい、その際に目を計測して、狭い範囲を見ているのか、広い範囲を見ているのかを推定したところ、やはり広い範囲を見ているときの方が正答率が高いことがわかりました」。つまり、見方を鍛えることで、打撃技術の向上に役立てられる可能性が見えてきたのです。

cisco insight 目は心の窓

また、「巷でよく行われているような、突然あちこちに現れる数字を読むような、いわゆる動体視力を鍛える訓練は、あまり意味がないかもしれません」と柏野氏は指摘します。「脳内の視覚の処理は後頭葉にある第一次視覚野に入り、その先の高次視覚野で大きく二手に分かれます。脳の下側を通る経路は色や形を、上側を通る経路は動きの処理をするのです。ですから、数字を読むのと、動くボールを捉えるのは、脳内ではまったく別の処理なのです」と柏野氏。実際に、反射的な動きに関する実験を行なったところ、大学野球部のレギュラーと補欠クラスの選手では、レギュラーの方が優れていることがわかりました。つまり、潜在脳機能が優れているのです。このような知見を積み上げることで、今後は、選手のスキルの評価指標として活用することができると考えられます。

さらに柏野氏らは、ウェアラブルセンサを用いて練習時と試合時の心拍や動きを計測し、運動に由来する成分だけを取り除くことで、メンタルによる影響を取り出すことに成功しました。

cisco insight 試合中のメンタル状態を捉える

「今後は、メンタルがパフォーマンスにどのように影響を与えるのかについても明らかにし、いわゆるゾーンやイップスと呼ばれるような良い状態や悪い状態を生み出す原因を探りたいと思います」(柏野氏)。潜在脳機能を探り、優れたアスリートの必要条件が明らかになれば、近い将来、選手一人ひとりに適したトレーニング法の開発も可能になるとして、さらなる研究成果に大きな期待が寄せられています。
(構成・文=田井中麻都佳)